晴れのちトキドキ曇り。。☆ Part2

書きたくなった時に気ままに思いをつらつらと…。

あいづち

Dr.コトー、毎週楽しみに見ています。
ドラマを見ながら、以前にも何となく思っていたのですが
第5話の放送を見て更に思いが大きくなったというか、
印象に強く残ったというか。。
まとまるかどうかわかりませんが
( いつものごとく多分ムリだと思うけど(^_^;) )、
ちょっといろいろと思いつくままに書いてみたいと思います。

コトーを見ていて、感じていたんです。
このドラマでは、自分の思いなどをまっすぐに語り、
それを誰かが聴くということがわりあいとあるのですが、
聴いている人が、むやみにあいづちを打たない感じが
印象に残っていて、それが、なんかいいなぁ と。
どういう場面だったかとか、
聴いていたのが誰だったかというのは覚えていないんですけど、
ある時のコトーは確かにそうでした。

このことを書こうと思ったきっかけの第5話では、
剛利 ( 時任三郎 ) がコトーに、
剛洋 ( 時任三郎の息子役 ) が父の剛利に、
自分の思いを語ったのですが、それを聴いていたコトーも、
息子の話を聴いていた剛利も、
あいづちを一切 ( たぶん ) 打たなかったんですよね。
どちらもけっこう長い時間の語りでした。
剛利なんてコトーに 「 なぁ、先生 」 みたいに語りかけてから
話したりすることもあったのに、コトーは返事すらしないんです。
でもどちらも違和感がなくて。

私は仕事でもプライベートでも、
人の話を聴く時は結構あいづちを打つ方だと思うんですよね。
自然に、「 うんうん 」 言ってしまう方で。
だから、こんなにあいづちを打たなくても
話が聴けるんだなぁ。。みたいな?
それで、あいづちを打つということをまた考えてみたというか。。

あいづちを打つことは、
相手に " 聴いている " ということを伝えることができたり、
" 聴こうとしている態度や聴きたいという思い " を
伝えることができたり、
こちらの理解の度合いを伝えることができたりすると思うんですが、
( ※ この辺りから仕事のことを考えながら書いています )
あいづちを打つことのマイナス面もあるかもしれないなぁと
今回ちょっと思って。。
あいづちのマイナスって
今まで考えたことがなかったかもしれないなぁ、と。
ほとんど聴いていないのに、
「 ふんふん 」 なんていうのは勿論ペケだけど、
そうでなくてちゃんと聴いているとしても
あいづちのマイナス面もあるのではないかなぁと。


 
あいづちを打つということは、聴いている私が居るということで、
目の前にいる私が 「 うん 」 と言う度に、
相手は私の顔を見ることになり、
同時に私の反応も感じることになると思うのです。
私の 「 うん 」 の反応の仕方には、
私の価値観が微妙に出てしまうと思うのです。
それは悪いことではないかもしれない。
でも、相手の話の間に私の価値観が混ざってしまうことでも
あるんじゃないかと。。
あいづちが相手の語りの邪魔をしてしまうことがあるのではないか、と…。

それに " あいづち " っていうのは、話を聴く上では大切なもので、
なければ不安になったりすることもあるものですが、
聴いていることを伝えるという点では
" やってあげる " という側面も持っていると思うのです。
より相手を " その人そのまま " として尊重したい時、
相手の言葉や思いを 「 うん 」 で邪魔することなく
そのまま感じとり、受け取りたい時、
時にあいづちが邪魔になることがあるのではないか?と、
そんなことを思ったりしました。

また 「 うん 」 っていうのは、 " 理解 " と関係しているから。
「 うん 」 と言わないことで、
理解を横において " 感じる " ことに重点を置ける気がします。
それは聴いている方も語る方も。

今回のドラマでの2組は、
話している人が聴いている人にどちらも背を向けていました。
剛利はコトーに背中を治療してもらいながら、
剛洋は布団に寝て背を向け、父の顔を見ないで。
相手の顔を見ないで話すことが、
あいづちを要求していないことを示している感じがしました。
" ただ聴いてほしい " " ただ感じてほしい "
そんな感じ。

コトーはいつも突っ張っている剛利が
自分の情けなさを語るのをただ聴き、
剛利は息子が自分を思いやる気持ちを強く感じ、
あいづちを打つのも忘れる。
あいづちがなくても、あいづちがあるとき以上に聴いている感じ、
全身を耳にして感じている感じ、、。
そんな感じがしました。

自分を振り返ってみると、
語り手の話があまりに辛そうで
簡単にあいづちを打ってはいけない感じがした時や
あまりに嬉しそうだったり楽しそうだったりして
ただそれを見ていたかったり感じていたかったりした時、
やはりあいづちを打っていない気がします。
ただ、ドラマのように
あきらかに私に向かって話しかけているのに
「 うん 」 と言わないことはないかな。
いや、なくもないかも。
(でもそれを考え出すと更に長くなりそうなのでやめます(笑))

長い長い時間、カウンセリングであいづちを入れずに聴く
というのは、まぁ、たぶん無理…ですよね。
いくら語り手を " その人そのまま尊重 " したくても (^_^;)
私に向かって話すままにしておかず、
相手に返していかないといけないですし。

でも、今回書いていてふと思ったのは、
人の顔を見て話すことができない人というのは、
今回のドラマで聴き手に背を向けて話していたのと
もしかすると同じような感じなのだろうか?ということ。
違うのかもしれないけれど、もしかして?と思ったりしました。

☆ コ メ ン ト ☆

またまた超長○ですが (^_^;)

いちぼんさんお久しぶりです (ToT)/~~~
いちぼんさんのコメントを読んで 『 へー!へー! 』 と思い、
自分のことに置きかえていろいろ考えてしまいました。
それでまたまたまとまらず… (^_^;)。
またまた、思いつくままに書いてしまうことにしました。

私は精神分析をしたことも ( もちろん? (^_^;) ) 受けたこともなく、
自由連想の知識もほとんどなく…。
黙って患者さんの話を聴くということが想像つかなかったのですが
知らないなりにちょっとイメージしてみたんです。
いつもウンウン言ってしまう方なので、
たぶん私も居心地悪いだろうな、と。
そして私も神田橋條治さんと同じ過程を
たどるような気がしました ( おー!大先生と一緒だ (笑) )
ただ私の場合、黙って聴き続けることに
居心地の悪さを感じなくなるという自信がありません。
だんだん居心地の悪さが減っていくような気はするのですが。
やっぱり心の中であいづちを打ち続けそうな気がします。

黙って相手の話を聴くには、
相手の心の中を自分の心の中を感じるように感じられないと
私の場合は無理なような気がします。
そこにたどりつけるまでは小さな声で 「 ほう 」 とは言わなくても、
( 「 うんうん 」 言っちゃいけないという思いが勝ちそうだから )
心の中では 「 うんうん 」 言いそうです。
その 「 うんうん 」 は、声を出してする指差し確認や、子どもが言うひとりごとに近いのかもしれません。自分の理解を確認するためのもの。

そうすると、普段相手に向けて言っているつもりの 「 うん 」 は、
相手に向けたものだけではないのかなということを思いました。
自分の発した 「 うん 」 の声を自分も聴くことで、ここまで理解している
ということを自分が再度確認できるという、
そういう自分のためのものでもあるのかもしれないのかな、と。
それから、「 うん 」 は私にとって
自分の中に作っていく相手の世界のかけら?一部?
自分と相手をわけていく目印でもあるのかなぁ、と。

それはそうと、
自由連想というのは、とってもとってもしんどそうですね v-12
私は受けたくないなぁと思ってしまいました (^_^;)
きっと抵抗だらけのような気が…。
あいづちがないところで一人で喋り続けることも
あいづちを打たずに黙って聴き続けることも
どちらも自分の大きな不安と戦わなくちゃいけない気がしました。
時には黙って聞いたり、黙って聞く " 部分 " がある
というくらいなら大丈夫そうですが。
そういう意味では、対面しながら、あいづちをお互いが感じながら
というカウンセリングは不安をだいぶ回避できるし、
回避してしまうのかなぁとも思いました。

うーん…、でも私は、無理して不安に向き合わなくてもいいか、と。
向き合える時期が来たら自分から取り組めるだろうと
考えているから、やっぱり回避してしまってもいいかな (^_^;)。

いちぼんさんが書かれた
居心地の悪さや相手の話にコミットするというのも
このような感じでしょうか?
自由連想の様子がイメージできないので変なことを書いているかもしれませんが…。
いちぼんさんのコメントに
今回、いろいろと思いをめぐらせていてもう1つ、、、。
私の発する 「 うん 」 は相手にとっては自分の心のドアを叩くノックの音?
とそんなことも思いました。
その音や叩き方を聞いてドアを開けるか決めることもある?のかなぁと。
あいづちにはいろんな側面がありますね。

こんにちは
おひさしぶりです。
コトー見てないんですが、相づちとは、おもしろいところに目をつけてますね。
神田橋條治の本に書いてあった話を思い出しました。
寝椅子を使った自由連想のときに、精神分析家は患者の話を通常はだまって聞くのです。その相づちさえせずに黙って聞くのが、神田橋條治は何とも居心地が悪かったそうです。それで、ごく小さな、患者には聞こえないぐらいの小さな声で、「ほう」という相づちを打つようにしたそうです。すると、居心地の悪さは解消したそうです。それに少しずつ慣れてくると、声には出さず、心の中で「ほう」という相づちを打つ、最後には、全くそういうこともしなくなった、でも、居心地の悪さは解決したというような話でした。聞いている方が自分自身で、しっかり相手の話にコミットするために相づちを打ったり、自分の居心地の悪さを解消するために相づちをうったりという側面もあるんでしょうね。

長○お返事になっちゃった ( 笑 )

ぎんぺーさん
こんばんは、お久しぶりですー。
お会いできて嬉しいでーす (ToT)/~~~

> 自分のことはなかなか自分で分からないからむずかしいです。

そうですねー、
自分のことって、わかってるのか?わかってないのか?って感じですね。
意識していることができる自分っていうのはほんの一部だし、
その意識している部分もその時その時でコロコロ変わるし。。

> あいづち上手、聞き上手というのは昔からそして今も「なりたいなぁ」と思っていることです。

聞き上手、あいづち上手かぁ。。
ぎんぺーさんは、どんなふうに話を聴く人なんだろう。。
プライベートでも仕事でも、
相手の話を楽しみながら笑顔で聴いている姿を
なんとなーく想像したりして。。
仕事では自分からはそれほど多くを語らないイメージ。。
上手かどうかは 『 ? 』 だけれど、安心感はある感じ。
以上、妄想&勝手な思い込みでした (笑)

「 上手 」 というと、なんだかよさげで私も漠然と憧れているかもです。
でも私の場合、実際にはなろうとしていないのかも。
聞き上手な人に話すより、
つい話してしまう人に私は話がしたくなるんですよ。
言い方ちょいと変だね (笑)
自分が話していて、ふと、この人聞き上手だなぁって思う人には
あまり惹かれない。
逆にちょっと冷めるっていうか。 ( 嫉妬? (^_^;) )
「 上手 」 っていうのが技巧的?な感じがして実は好きじゃないのかもしれないです。
つい話してしまう人のことは、
聞き上手だねと意外と思わなかったりするのは何故??
って感じなのです。意味不明? (^_^;)
だから私も、聞き上手より、つい話したくなる人でありたいなぁと。。
クライエントさんがそう感じてくれるといいなぁと。。
今は正解がわからないので、
ひたすら相手の表情などを見る感じる見る感じる見る感じる…? ( 笑 )

> 言葉がなくても「感じている」コミュニケーション…。

ドラマ、見てます?
画面を見ていてあいづちがないと、言葉がないだけに
聴き手がどんな感情を感じているんだろう、
話し手のどういう気持ちを感じとっているんだろう
と、つい焦点をあてちゃうんですよね。
引き込まれますよー。泣けますよー ( 笑 )

かぼちゃくんは、あいづち上手

あいづち上手、聞き上手というのは昔からそして今も「なりたいなぁ」と思っていることです。
自分のことはなかなか自分で分からないからむずかしいです。
言葉がなくても「感じている」コミュニケーション…。それも、なるほどですね。

きょうかぼちゃは

きょうかぼちゃはpapierluftballonで理解するはずだったの。

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